論考集アブストラクト 2022年度
2022年度のゼミで執筆された論考のタイトルとアブストラクトです。
(順不同)
I.Y. 「社会科学における『客観性』と自然主義」
多くの社会科学は自然科学の影響を受け、その方法論を取り入れることを通して客観性を追求してきた。本稿は、定量的研究に偏重した現状の社会科学に疑問を投げかけ、客観的な社会科学を目指す上では社会科学者が分野横断的な研究を行う必要性を論じた。
K.M.「中国は民主化できるのか―民主主義諸国の理想と現実―」
中国の、欧米が定義する「民主化」の可能性について客観的視点から検討した。地方政治の現状と党内の権力構造、過去の民主化運動を根拠に、中国統治の重要な要素である人民解放軍の動向を軸として3つのシナリオを提示した。
K.K.「身体・所有・人格―身体の法的地位をめぐるラビリンス―」
「身体」は法的に、主体としての私と、いかに関係づけられるべきか。人格・物・所有概念の成立史を追跡し、臓器売買など同時代的な問題への示唆も視野に入れながら考察した。身体を「物」と構成し、所有権と取引の制限によって規律する余地を探った。
K.K.「生権力と社会学方法論――卒業論文の序文に代えて」
筆者の問題意識の通奏低音をなす「能力主義」に対する分析、社会学理論の変遷を追いつつ、主題は社会学の学問的方法へと展開。自らもまた社会の一員であるのに、全てを相対化しつつ、社会はいかにして観察可能か。
K.K.「『都市への権利』再考」
Henri Lefebvreに遡る「都市への権利」。住民は長い時間をかけて都市の固有性を構築し、都市は交換不可能な価値を獲得する。一方、巨大資本による画一的な再開発は時に物議を醸す。住民に、その固有な価値を享受する権利はあるか。
N.K.「Why Wikipedia Works―ネオ・サイバネティクスの視座から―」
誤情報が飛び交い、「事実」の共有が困難となっている現代にも拘らず、なぜ「信用できない」Wikipediaは使い続けられるのか。セカンド・オーダー・サイバネティクスやオートポイエーシス理論を用い、「擬似的な客観世界」を析出するアーキテクチャとしての説明を試みた。
A.S.「『メタバース』は『ディストピア』か?ー人工現実環境とその社会実装についての規範的分析―」
テーマはメタバース・VR技術。人工現実環境の三要素(自律性、対話性、臨場性)を元にメタバースを定義した。「現実の相対化」に注目し、快楽説・選好充足説に基づいてその望ましい形での社会実装を考察した。
M.S.「AI駆動型科学の社会学的構造と倫理―オートポイエーシス理論を軸に―」
AIの飛躍的な発達に伴い、自然科学の発展そのものが、AIのみによって自律的に担われる可能性がある。一方で科学技術はしばしば意図せざる結果を招くのであって、そのときに科学者はどのような責任を負うのだろうか?
W.A.「現代日本の結婚観はいかに変容するか―結婚と生殖の関係性から―」
明治以降日本の結婚観を追跡する論考。恋愛結婚の全面化に続いた生殖補助技術の普及やライフスタイルの変容がもたらした「結婚と生殖の分離」は、同性婚訴訟の結婚観「親密な関係性の保護」において一里塚を迎えた。
W.O.「国益と国際協調は両立するのか―日本が目指すべき道を探索して―」
国益と国際協調を両立することは可能なのか、日本を事例に考察した論考である。政治学・国際政治学の中で国益というものがどう捉えられてきたのか検討した上で、日本の国益とは何であるか分析している。
T.T.「『宗教』再考―『文明とは、麻痺状態のことだ』―」
「日本には無宗教が多い」という言明は真だろうか?筆者は、「宗教」の定義を拡張し、不可視の社会規範たる「空気」に光を当てる。これにより我々は、理性的な討議を阻害する「空気」ないし「宗教」を相対化できるのである。
Y.S.「熟議民主主義の制度化を目指して―公共圏としてのマスメディアと Twitter の検討と提案―」
Habermasを参照し、規範としての公共圏概念を提示・熟議の場としてSNSに着目。熟議の成立条件とSNSを比較して問題を洗い出した上で、討論をフレームするマスメディアの責任の重要性を強調した。
M.Y.「情報化時代のプライバシーの必要性を問う― Is privacy no longer a social norm? ―」
「そもそもプライバシーは現代人に必要なのか」という問いへの応答を目指した論考。個人と企業の情報の非対称性、プラットフォーマーの利得と公共性、情報収集主体の意識の有無、契約の同意とプライバシーの関係等の論点に触れる。
S.M.「開発はアフリカを導けるか?」
アフリカが置かれる現状に見出した「周辺性」を定量的に分析し、開発観の根底にある西欧中心主義やオーナーシップの形骸化といった現代の開発が抱える問題を指摘した。これらを乗り越えた先にある、開発の「あるべき姿」について提言を行った論考。
S.T.「『ドライブ・マイ・カー』のアカデミー賞国際長編映画賞の受賞を、ハリウッドの社会的・歴史的文脈の中に位置づける試み」
『ドライブ・マイ・カー』国際長編映画賞受賞を題材とし、WW2、冷戦、テロ、ハッシュタグ運動等のイベントにおける米国社会ー映画の相互作用の分析を通し「地域密着型組織」と「国際化を求めるグローバル組織」の間で揺れる現代のアカデミー像を提示した。
H.S.「“Before” After Victory―戦後の『自制的』秩序に対する敗者の認識―」
敗者を包摂した戦後国際秩序の構築はいかにして可能か。IkenberryのAfter Victoryをはじめとする戦勝国の戦略的自制の議論を、秩序に対する敗戦国の認識を考慮していないとして批判し、事例分析を通して、戦争終結以前から優勢勢力が戦後秩序への包摂のコミットメントを送っていると結論づけた。
N.Y.「ポスト・ウェストファリア・アポリア―『世界立憲秩序』という新たな『神話』の構想―」
多国籍企業・NGOなどの国境を超えた現象による主権国家体制の「神話」―世界を意味の次元で理解する枠組み―の動揺を扱い、国家主権的性格を残す軍事や外交の公的な領域と、越境的に繋がるビジネスや人権の私的な領域を区別し「世界立憲秩序」を構想した。
Y.M.「脱・『LGBT』『ブーム』―人権問題の市場化への警鐘―」
「LGBT」を差別してはならないとの表面的な認識が広がりつつあるが、可視性のアクティビズムが新自由主義と融合した結果の、経済効果を目的とした〈需要〉による〈受容〉にすぎないと論じ、人権を法制度的に保障する最終目標を見失わないよう提言した。
K.R.「擬似国家としての企業―テック企業が牽引するサイバー空間と、今後の社会についてー」
巨大テック企業が国際社会における新たな「極」となっている(”technopolar moment”)とする言説を批判的に検討し、テック企業による「擬似統治」と国家との関係について論じた。企業経営の志向性を類型化し、それに基づくサイバー空間の行く末と社会制度の対応を構想した。
S.H.「立ち現れる国家―福祉領野における周縁化―」
nationとstateという側面を持つ「国家」をミクロな視点に定位して分析した論考。人々が国家から疎外された時に国家が意識の中で「立ち現れる」ことを、生活保護に焦点を当てた実証分析により示すことを試みた、稚拙ながらも筆者の興味関心の礎となるような「論考」。
T.T.「科学コミュニケーションと科学との関係ー科学コミュニケーションの登場は、科学に如何なる影響を与えたのかー」
本稿は、科学コミュニケーションという20世紀後半に始まった行為が、科学に与えた影響を検討した。科学コミュニケーションの現状と過去とを比較・検討し、目的合理性からコミュニケーション的合理性というハーバーマスの合理性の転回を参照して、科学の相対化という結論を導いた。